聴覚障害者が堂々と -社会はいたわりの気持ちをー

2008年12月4日 木曜日

 聴覚障害者は目立たない。いや、目立たないようにしている。自分の聴力が悪いと、他人に悟られるのを恐れているからだ。

 従って、聴力が悪くなってきても、補聴器をつけたがらない。つけていると難聴者扱いされ、人とのつき合いでも、仕事の上でもハンディを背負わされてしまうからだ。

 聴力が悪くなり、補聴器をつけていないと、他人の言っていることが良く理解できないから、あいまいな返事をする。そのうちに、そういう機会をだんだん避けるようになり、社会や家族と没交渉の、聞かなくてよい生活になっていってしまう。

 このように、悪い方向へと転回して、よそめには静かな、穏やかな人生に見えるし、それを楽しんでいる人もいるかもしれないが、生活の活性が下がり、老化がボケが進行していっているように思われる状況を多くみる。

 これはもちろん、本人に問題があることは事実だが、社会にも大いに責任があるのではないか。

 現在の日本の社会が聴覚障害者を前述のようになる方向へ追いつめているのではないか、と考えられることがある。

 幸い、日本の社会にもだいぶゆとりができて、先の阪神大震災の一般の人々のボランティア活動で注目されたように、いろいろなボランティア活動が育ってきている。

 このような助け合いの気持ちを社会が持てるようになり、人口の約4%前後、従って全国で4~5百万人、当県で4~5万人と推定される聴覚不自由者にも、いたわりの気持ちを持って接するようになる社会になってほしいと思う。

 高齢化社会の到来により、聴覚障害者も増加している。50~60歳代ごろから身体のところどころに故障を生じることが多くなるように、耳も例外ではなく、聴覚に障害をきたす人が増えてくる。これはだれにでも起こり得るのである。

 これらの人々を、社会から除外しないでほしい。否、これらの人々も社会の構成員の一人であるので、同じ構成員として受け入れるべきで、その生活・活動に支障をきたさないように、いたわり、助け合っていってほしい。現状では聴覚障害者の、日本国憲法に保障された人権が守られていないのではないか、と思うことがある。

 聴覚障害者が、自分は耳が不自由であることを堂々と言える社会、そしてその人たちを差別せず、「ゆっくり」「はっきり」「わかりやすく」話してあげる、いたわりのある社会になってほしいと思う。

 福祉政策が重視され、聴覚障害者への補聴器供給態勢も徐々に醸成されつつあることは喜ばしい。

 しかし、物を与えれば福祉は完了と、弱者へ物をめぐんでやるような従来型の「福祉」が、まだ大手を振っているような状況も、なお目につくことがある。社会における同じ構成員同士のいたわり合い、人権の尊重が成り立っていないからだと思われる。

 聴覚障害者の補聴器適合運動を始めて約2年。

 われわれ社会のこれらの人々に対する対応が気になる昨今である。

 ※平成7年4月24日(月) 沖縄タイムス「論壇」投稿 掲載


  • カテゴリー: 論壇
  • 投稿日:2008年12月4日 木曜日

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